桂岩寺の歴史

桂岩寺は、開創以来670年(2020年現在)となる格式と歴史・由緒を誇るお寺です。

檀信徒の皆様のご助力により、浄土念仏道場の拠点として宗門ばかりではなく、この地方に於きましても重きをなしてまいりました。

当山の開山、照璟光山慧珉大和尚は、大本山円福寺(当時・京都)第五世の法主「善偉堯恵上人」の直弟子で、当地に留錫の時、領主の三州戸ケ崎の城主、戸ケ埼次郎義宗郷が深く上人の高徳を崇めて帰依し、四十四石の荘園を寄付して一宇を創建され、さらに永く上人を当地に留めるべく、
後村上天皇の正平五年(1350、北朝、観応元年)三月に本堂庫裡等を新築落成して上人を開山として菩提寺と定め、三河国深草派十二本寺の随一とせられました。

義宗郷は矢田判官義清の孫、広沢判官義実郷の子息で、明徳四年(1393)六月二十七日、道目記の合戦で戦死されたため当山に葬り、開山上人が引導、焼香、「源徳院殿慶巌善公大居士」と号し、武具を納めてハ幡官を勧請して「若宮八幡」と称しました。義宗郷の戦死の翌日、夫人の富波姫は夫を慕って自害されたと云います。

また姫は長刀の名手で敵に向って勇ましく戦い、三十数人の首級をあげて戦死したとも伝えられている。「雷光院殿玉岩清心太禅定尼」と号し、同じく当山に埋葬されています。
開山慧珉大和尚は三十二才で当山を創立し教化四十八年に及んだ後、応永 五年(1398)正月十四日、八十一才で遷化されました。

その後、第四代の中興・尊阿照翁等意上人は享禄二年(1529)に安楽寺(蒲郡市)より住職せられ、当山に住すること九年。天文八年(1538)、大林寺(岡崎市)の第三代に転住し、松平広忠公を引導焼香されました。(中興上人とは開山に次ぐ人を尊んで云う。寺の諸堂の再建、大修理に功労のある住職を称す。)


宝永五年五月の境内絵図(約三百年前)

上人は高徳の誉れ高く、上人に帰依する人は後を絶たず。中でも安城城主の松平甚六康忠公は、深く上人の徳に帰依し、この寺を永く菩提寺と定めて、天文六年(1537)本堂を始めとして、殿舎を悉く再建せられました。

康忠公は、松平和泉守信光公の二男、左京亮親忠の八男、松平右京亮張忠公の子息にして、天文九年(1540)六月六日、安城に於いて討ち死にされたため当山に葬られました。位牌に『孝子、松平甚太郎家忠建之』とあり、「天明院殿月峰珠光大居士」と号されます。

これにより三河国・浄土宗西山深草派十二本寺の随一として、徳川幕府より寺領・御朱印三十五石九斗を下付され、将軍家代々の薨去に際しては、納経・拝礼を仰せつけられることとなりました。

以来、栄枯盛衰、慶長年間(約4百年前)の当山の古絵図によれば、圦内地 一万二千坪、山内の塔頭 二ヶ寺もある堂々たる桂岩寺ではありましたが、度重なる台風襲来や地震などの自然災害による被害の復旧、飢饉や人為的な経済破綻、また、神仏分離や廃仏毀釈、戦後の農地解放など時代の荒波などなどにより、必ずしも安穏なものではありませんでした。しかし、その都度に、時代時代の住職、また檀信徒や擁護衆の尽力によって乗り越え、念仏道場としての威信と法脈の灯火を現在に明々と伝えております。

また、桂岩寺は開山当時「慶巖寺」と号しておりましたが、慶長七年(1602)、徳川家康公より寺領三十五石九斗を賜り、それ以来、寺号を「桂岩寺」と改められました。資料(古今万宝雑記)によりますと「分かりやすいように」と「簡略化」のためと記されております。